撮影:高嶋 清俊 写真提供:阪神総合レジャー株式会社
O d a w a r a N o d o k a
O d a w a r a N o d o k a 小田原のどか
《 ↓ 》について考える 佐々木友輔(映像作家)
小田原のどかの作品は、鑑賞者をとめどない思考に誘う。そしておそらく辿り着くべきひとつの場所や答えは用意されていない。だからここではその誘いに導かれるままに、私の頭に浮かんだこと、その流れを書き連ねてみることにしたい。私にはそれが彼女の作品について紹介するのにもっとも適切な方法であるように思われる。
小田原が2008年から取り組んでいる、矢印記号を実体を持った彫刻として提示する一連の作品群。そのタイトルは《↓》。シリーズを通してすべて《↓》である。これほどまでに名が体を表している作品も珍しい。
例えばマグリットが《イメージの裏切り》でパイプの絵に「これはパイプではない」と記したように、描かれた「パイプ」と煙草を吸うために用いる実際の「パイプ」、さらには文字で書かれた「パイプ」はそれぞれ同じものではない。しかし「方向を指し示す記号が矢印である」という定義に従うなら、小田原が名付けたタイトルの「↓」と、ホワイトキューブあるいは野外に設置された矢印の間には、何ら違いはないと言えるだろう。
しかし、小田原がこの矢印を「作品」として提示しており、さらにこれは「彫刻」であると主張しているからには、やはり、紙に書かれた(あるいはパソコンでタイプされた)文字の矢印と何が違うのかと問いたくなる。この記号を、あえてこのようなかたちで実体化するのはなぜなのか。最も容易に思いつくのは、実体化することによって生じる物質感・量感に作家の意図を読み取ることであろう。それならば、小田原が「彫刻」としてこの作品を制作していることにも納得がいく。
ところが、実際に制作された矢印を眺めてみると、このような仮定が間違っているような気がしてくる。この作品の物質感・量感はあまりにも希薄なのだ。むしろ小田原は、こちらの読みとは逆に、ガラス管やネオン管のような透明で線の細い素材を用いることで、作品から物質感を削ぎ落としていく方向に向かっているようにも見える。小田原の作品はマッスを欠いている。具体的にある素材を用いて実体化している以上、物質感が「無い」とまで言い切ることはできないが、少なくともそこにこの作品の核心があるわけではなさそうである。
ならば物質感や量感への注目から離れて、素直に矢印=「↓」というひとつの「記号」としてこの作品を読みとってみたらどうだろうか。作品のタイトルとして紙やモニタ上に記された矢印も、作品として実体化されて特定の場所に設置された矢印も、共に方向を指し示す記号であるとするならば、両者の差異はどこにあるだろうか。おそらくそれは、矢印が指し示す対象の違いである。
小田原の《↓》では、記された矢印も、実体化された矢印も、すべて下向きの矢印である。しかし、両者が指し示す「下」のあり方はそれぞれ異なっている。実体化された矢印にとっての「下」が、自らが設置されている地面、自らの依って立つ基盤の方を差し示しているのに対して、記された矢印の「下」は、決して自らを支える基盤(紙やモニタ)を指し示すことができない。矢印を図、支持体を地として言い換えれば、実体化された矢印という図は地に対して垂直に立つことができるのに対して、記された矢印という図は地と平行の関係しか築くことができないのだ。小田原は「彫刻は、どこにあるのか?「↓」についての一考」と題されたテキストにおいて、この関係を絵画と彫刻の違いとして記述している。
ひとつの仮説として、絵ではないものとして彫刻を定めることができると考えてみる。では、絵とは何か。絵という平面がこの世界に垂直に浮いているのである。絵ではないものとして彫刻は、地に足をつける。
(東京藝術大学 先端芸術表現 卒業|修了制作2010 公式カタログ p137)
記された矢印と実体化された矢印における図と地の関係性の差異が、ここでは絵画と彫刻の差異として記述されている。「絵という平面」はこの世界に対して垂直に浮いているのかもしれないが、その平面に描かれた「絵」は、この世界という地に直接足をつけることができない。絵は、この世界よりも先にまず支持体としてのカンバスの上に描かれるのであり、この世界という地に対する図としてではなく、この世界という地に対する図としての平面を地とする図という間接的な関係を持つことしかできないのである。
もう少し別の方向からも考えてみよう。一般的な道路標識に記された矢印記号は、アルミ板を素材とする支持体の上に描かれている。つまり記された矢印であり、彫刻ではなく絵としてある。この矢印は、標識という支持体=地に囲まれることによって周囲の風景から隔離されている。実体を持った物体でありながら、他の事物とは異なるレイヤー上に置かれた半透明な存在として提示されている。これは、自らの実在を強調するのではなく、あくまでこの世界に対して補足的な説明・注釈を加える付加情報の役割を果たすためだと言える。
それに対して小田原は、矢印という記号から支持体を引き剥がし、直接地に足をつけさせる。そうすることでこの矢印は、付加情報として何か別の対象を指すのではなく、自らと、自らの依って立つ地を同時に指し示すのである。鑑賞者はこの矢印を見て(一般的な道路標識ほどには)その指されている先に何があるかに関心を持ちはしないだろう。むしろその矢印そのものが、私たち鑑賞者が立っているのと同じ地面に立っているということ、「いま、ここ」を私たちと共有しているのだという事実が、目の前に大きくせり出してくるのである。
ここまで来て私はある考えに思い至る。先述の通り小田原は、彫刻に「絵ではないもの」、「地に足をつけるもの」という定義を与えているが、そこからさらに彼女は、この彫刻の定義を人間やその他あらゆる存在の根元的な形式にまで拡張してみせようとしているのではないか。彫刻が彫刻として成立する条件を過不足なく示したミニマムな彫刻としての矢印記号が、同時に、例えば人間という存在が世界に存在する上でのミニマムな条件をも示している。そう考えることができないだろうか。 連想するのは、場所について論じた哲学者たちである。例えば現存在が存在することの根元的な形式を「時間性」に求めたハイデッガーの存在論に異議を挟み、「空間性」に「時間性」と同等の重要性があることを訴えた和辻哲郎。またあるいは「在るものは何かに於てあると考えざるを得ない」と述べ、独自の場所論を打ち立てた西田幾多郎。すべてを入れている容器のようなものであり、世界そのものである「絶対無の場所」からの自己限定によって個(主語)が生じるという彼の場所の論理は、「無限に遠い中心を持った球の表面で絵は、重力によって、絵でないものとして地上に降り立つ。そのようにして現在地が固定される。」(東京藝術大学 先端芸術表現 卒業|修了制作2010 公式カタログ p137) と言う小田原の言葉と正確に重なるだろう。
しかし小田原は、既存の哲学で言われていることをただなぞり、その印象を曖昧に翻訳して作品化し、それで満足してしまうのではない。冒頭でも述べたように彼女は、辿り着くべきひとつの答えを用意していない。彼女の胸の内にあるのはおそらく、「この世界はこのようになっているのだ」という断定ではなく、「この世界がこのようになっているとするならば」という仮定である。そしてこの仮定をもとにして、目の前に見えている世界をいったん保留して、一から世界を記述し直そうとするのだ。ただし、それは決してここではないどこか別の世界への志向ではないし、見るべきものを見ずに済ませるような逃避でもない。あくまで、これまでとは別の目で、別の言葉で、別の仕方で、「いま、ここ」を見つめ直し、書き直し、検証する試みなのである。
そのように考えるならば、《↓》という作品は、世界の再記述のための第一歩であり、土台づくりの作業なのかもしれない。実際、2011年からの小田原の活動は、「彫刻とは何か」あるいは「有るとはどういうことか」といった根元的な問いに向き合うのみならず、より複雑な世界の記述へと向かい始めている。例えば小田原自身が企画した3名の作家によるグループ展「あなたはいま、まさに、ここにいる」(於 静岡市クリエーター支援センター/3331 Arts Chiyoda)では、これまでと同様に矢印のモチーフを扱いながらも、自らの作品を単体で成立させるのではなく他の作家の作品を介在させることで、いわゆる他者の問題やディスポジション(配置、布置、傾向性)の問題に挑もうとしているように見受けられたし、また筆者が企画した展覧会「floating view 2 トポフィリア・アップデート」(於 新宿眼科画廊)に出品してもらった《↓(2011)》では、1946年に長崎の原爆投下中心地に立てられていた矢のかたちをしたモニュメントを再現し、抽象的な矢印記号を世界史的な文脈に接続することが意図されていたのだ。
正直なところ、はじめて小田原のつくる矢印を見た時、私はそのシンプルでストイックな外観の印象に引き寄せられすぎて、これだけミニマムな作品になるとその後の展開も限定されてしまうし、近いうちに行き詰まってしまうのではないか、などと勝手に心配をしていた。しかしそれはまったくの杞憂であったようだ。
誰もが知っているように、この世界は広大で、どこまでも深い。取り組むべき課題はいくらでもある。小田原の作家としての真価が試されるのは「地に足をつけるものとしての彫刻」という世界記述のツールがどこまでこの世界を捉えるのに有効で、そして、どのような新しい風景を描いてくれるのかという点にあるだろう。
可能な限りすべてを彫刻として記述してみてほしい。誤解や間違いをおそれず、すべてを矢印で表してみてほしい。それが、同じ時代と場所に居合わせた作家のひとりである私が小田原に希望することだ。彼女が記述し直したこの世界の全体像を目にすることができる日を楽しみに待っている。
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